南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

なんとなく生きている実感が無いというか

仕事を病気休職の名目で休んで、早、半年。最初の頃は体調を取り戻すことに終始していた気がするけれど、体調は一向に良くならず。むしろ外に出て人と触れあうことの億劫さ・・いや、嫌悪が増しているだけで、家に閉じこもっていても自分が生きているという実感を感じられない。

イヤでも通勤電車に乗って、イヤな思いを毎日しながら、やりたくもないイヤな仕事を淡々と続けることでもそれなりにやり甲斐があったということだろうか?いや、それはやはり認めたくないし、流されるだけでやり甲斐ではないだろうし、身体も精神もそれを拒んでいることは良く理解できる。何より身体は正直だ。心は身体の入れ物なのである。

 

今では家人がいなければ外出もほとんどできないし、レストランや喫茶店に行くことすらできない。単に力強い家族がいることが自身を保護していてくれるような気分になって自分らしく行動できているという実感がある。

逆に考えれば一人で社会に触れることは恐怖と強い嫌悪の繰り返しであって、それは他ならぬ他人の相利共生を考えず、独りよがりな行動に振り回されるのはゴメンなのである。そして、それにある程度従属する形でしか社会参加できない自分に歯痒さと共に強い嫌悪に苛まれているのである。

 

いつの間にか友だちも疎遠になってしまった。ある意味、家人の庇護の元にあってこそ他者との接触が可能であることも理由の一つであるのだが、単純に自分自身が外の世界と接触することを拒んでいることだろう。みっともない姿を親しい友人には見せたくない。

 

休んでいれうばもう少し様々な状況が好転していくだろう・・そう考えていたが、実際には通勤練習と称して通勤時間帯の電車に乗れば、いつか自分の杖で不心得ものを打ち据える未来が見える。それは避けなければならない。産業医と面談しても通り一辺倒な復帰プランを提示されて、そこは問題解決ではないと何度言ったら理解してくれるのだろう?

 

もともとこのブログには、単にレビューを増やすために時流に乗ったゴシップを書くことをしたり、外野から無関係に他人の真偽も知らずに中傷することを良しとしないことから、ネタを絞っている。また、仕事に関係することはどうしてもストレスを伴うので、セキュリティ、IoT、伝送路関連については書かないようにしている。

その代わり、自分が困ったこと。自分がやってみて有意義だったこと、映画や小説などの感想が誰かのある種の豊かな発想なり行動に繋げれば良いとの思いだった。

ところが、最近はそのモチベーションと共に、自身の生きるモチベーションも失いつつあるのが分かる。病気が重篤であった40歳前後。命を繋いだのは親よりも先立つことがいかに親不孝であるかをかろうじて残った理性が思いとどまっただけである。今はそれに加え、誠実な家人、無垢で飼い主を疑わない猫たちがいる。生きることに生き甲斐を見付けられなくても、それは人生の幕引きに直結しないことは理解しているし、それだけの判断力は有している。

 

ただ、どうにも生きている意義というかモチベーションが見当たらない。「それは自分で作るもの」だと人は言うだろう。だが、卑怯な言い回しを承知で書けば、同じ立場になってみれば理解できるのかも知れない。そこは僕にとって恐怖と痛みを伴うものだ。

 

まあ、こうやって眠れぬ夜を過ごしていても、明日の朝にはまた違った気分で目覚めるのかも知れない。淡い期待としても、まずは、一歩踏み出す行動が必要なのだろう。自分はある程度は有能だと思っている。知識と知恵は年齢に応じたもの、ただ、決定的に行動力が伴わない。そういう意味ではハッキリと「無能」である。どこかにそれに繋がる、目に見えない「キッカケがある」そう思えるほどはトシを食っている。あまり人生を無駄にせず、残りの人生があるウチに探し求めるべきものだろう。

 

明日はどんな日の出を迎えるのか?いや、そもそも寝られのか分からないが、こういう時には無理に寝ようとしても逆効果だろう。身体が睡眠を欲するまで穏やかに待とう。夜は長い。だが、朝はそれほど長くないものだ。