南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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「自分のままでいたい」という失われる望み(映画:アリスのままで)

うーん、なんとなく没入できなかった映画である。でも、感想を書きたい映画でもある。

 著名な言語学者アリス。コロンビア大学で教鞭を執るアリスは学生たちからも人気を集める優秀な教授でもあった。夫のジョンとの関係も良好であり、子供たちも女優を目指す次女のリディア以外は順調である。

そんなアリスに頻繁な「物忘れ」が起こるようになる。神経科を受診し、検査した結果は「若年性アルツハイマー」。彼女はその後の人生をどう過ごすのか?また家族は?

 若年層アルツハイマーは認知症の括りの中にある。主な原因は遺伝的なものであるとは知っていたが、劇中では具体的な診断において遺伝的な「陽性/陰性」の告知シーンがある。ここまでは知らなかった。

ansinkaigo.jp

僕の知っている範囲だと、若年性アルツハイマーの検査は以下だ。

  • 質問形式の問診(頭痛や記憶テストも含む)
  • MRI
  • PET

多くのサイトでも似たようなことが書かれているが、注意が必要な点としては「自己診断で間違った判断を下さない」ことだと思う。多くは「うつ病」や「せん妄(これは僕が持っているもので、機会があったら書いてみたい)」などのストレス疾患や、脳腫瘍などの肉体的な病巣があるケースもある。疑わしかったら病院に行く。これが絶対だろう。不幸になるのは自分だけではないのだ。

 

映画に戻ろう。

ジュリアン・ムーアの演技は相変わらず素晴らしい。情緒豊かで役になりきる姿が圧倒される。特にこういった役柄は彼女にも合っているだろう。アレック・ボールドウィンとの配役はこの手の映画としてはどうよ?と思ったのは事実。彼は底抜けに明るくて、ハンサム。そういう印象があるからだ。何も映画をウツウツと作る必要は無いのだが、どうも一人浮いているように感じる。

ただ、こちらも正直に書くが、僕はアレック・ボールドウィンにとても憧れがある。何と言うか・・自分もこんなパパになりたい・・だろうか?

対して、次女の感情の起伏が良く描かれている。クリステン・スチュワートは「トワイライト・シリーズ」で有名だが、個人的には「パニック・ルーム」の子役が印象的だった。あの頃より一層美しい。特に、彼女が最終的に母を看ることになる。よく分からないが、世間でもこの手の話しはよく聞くところで、夫なり妻ではなく、長女や長男でもなく次女が看る。なんでだろうね?

実は僕の周囲にはアルツハイマー病の人がいたことがない。老人性認知症の場合でも祖父母が70代を越してからそれらしき症状を発したことはあるが、それほど酷いものではなかったし、そもそも近隣にいなかった。

ただ、この症状は他の映画の中でも描写されているものが多い。単に物忘れだけではなく、睡眠障害や見当識障害(日付けが分からなくなったり、自分がいる場所が分からなくなったり)、失禁、徘徊、妄想・・様々な症状がある。劇中では失禁の場面があるが、多くは刺激的な描写は少なく、実際にはもっと凄まじいものを想像する。それは老齢による認知症患者の描写がある映画による影響もあるだろうが、例えば徘徊。

映画の中では、ジュリアン・ムーアがその症状を表現しているが、現実はもっと酷くて残酷なのだと思う。たまたま彼女が聡明で、メモやパソコンやスマホを上手く使っていることにそう感じる。多くが冷静なシーンで、ここまで受けとめられる人は実際には少ないだろうし時間もかかるのではないだろうか?そこが逆に少し物足りなさみたいなものを感じた。

時折差し込まれる過去の映像。そしてそれは最後のシーンに繋がる。これはとても見事だ。「自分のまま」を過去に求める姿を具体的なシーンとして見せる。微妙に現実感に乏しく感じるのは同年代とは言え、僕が日本人だからだろう。あんな子供時代は無かったから。それでも最後のシーンはちょっとホロリとくる。それが良い意味でないことは分かるが。

 

この起こってしまったことに対する問題はなにか?

ここに尽きるのだと思う。治療法は明確にはない。進行を遅らせることはできているが、治療法が確立されるのにはまだ時間が必要だろう。

病気に対する問題としての対象は下記だろうか。

  • 本人
  • 家族
  • 友人
  • 社会的に関係する人々(仕事も含めて)

まずは本人に対することを考えてみる

実際に自分がなったらどうか?だろうか。おそらく、初期の絶望は筆舌に尽くしがたいものだろう。それは、アリスが症状が進行した未来の自分に対して自殺を促すビデオを残しておくことで表現されている。もちろん、これには自分のみならず、家族にかかる負担も考えられていると想像できる。

ただ、正直に言わせてもらうと、例えば、これが癌や他の難治疾患の場合だったらどうだろうか?大きく違うところは「自分を認識できなくなる恐怖」だろうか。死を怖れることとどちらが「重い」のか?例えば本人にとってみれば、これはどちらがどうと言うことは無いんじゃないだろうかと思うが、問題は「自分を認識できなくなる」ことをどう受けとめるかによる。過去の積み上げたものを失い、もちろん思い出も無くなる。これはどうだろうか?僕自身だったら・・そう、重篤なことであるが、本人にとっては事故死などの不慮の事故に比べれば猶予期間があるだけマシな気がする。むしろ、先にある「死」までが見えなくなっていることは返って気が楽かも知れない。もちろん、実際にその場に立ってみないと分からないことだが。

 

では家族はどうだろうか?

個人的にはここが一番辛いところだろうと思う。目の前で愛する者が変容していくことに耐えられるか?中には患者が暴言を吐くケースも多い。赤ん坊のようになってしまうかつての妻を、夫を、父を母をどう受けとめられるか?また、生活面においても目を離すことができない、介助が必要、経済的な問題・・あげだしたらキリがないほどだ。家族の負担は深刻である介護問題と同様であり、若年層であればそれに「残酷な光景」が加わるのだと思う。ここはちょっと耐えられる自信がない。が、耐えねばそこには「愛が無かったこと」になるし、逆に考えて「愛があるのなら耐えられる」という思いもそこにはある。誤解を怖れず敢えて言うのなら、心の準備として想定しておくことだろうか。準備のできた心は先々のことも含めて大きな支えになる。

 

対策を考えると、ここに対する社会的な仕組みとしては「介護ケア」と同様であると思える。これだけ「介護者」が少ないとか「介護施設が不足」していると言われているが、行政はなにをしているのか?社会は何を作れば良いのか?ひどく当たり前のことでなんども言われていることだが、これからの老齢化社会は、老人だけの問題ではない。上記に書いたようにその家族や周囲の若い人たちの問題でもあることだ。例えばそれがビジネスに直結しても効果的な対策が良いと思う。それで多くの人たちが少しでも人間的な人生が送ることができるのであれば。なにごとも綺麗事だでは済まないのだ。だからどんどん対策を考えてもらいたい。せっかくIoTの世界なのだから。

僕の住んでる団地周辺には、市の広報から毎日のように「徘徊老人」と思われる尋ね人のアナウンスがある。そう、「毎日のように」だ。それこそ「氷山の一角」や「ハインリッヒの法則」を思い出すのだけれど、こういったことは全世界的に日常的に起こっていることなのだろう。これだってもっとできることがあると思う。経済的な問題も含めて、企業や自治体、行政が対応を考えて欲しいと思う。

蛇足だが、少なくとも、くだらないことに血税を使ったり、それを小学生でも使わないようなアホらしい言い訳で済ませて欲しくないし、そんなことができる大人が存在する世の中であることが我慢ならないし、毎日そんな「バカさ」を見せられる身にもなってもらいたい。

 

さて、「自分のままでいたい」。どうだろうか?今の自分を否定的に捉えている自分にとっては、あまりピンと来ないのが正直なところだ。名優ジュリアン・ムーアが演じている姿を見ても、やっぱりピンと来ないのは、ここまでの自分が良い人生を送っていないのだろうか?・・と行き着き、ここでやっと絶望に近い感覚を覚える。自分はこの歳まで何をしてきたんだ?と。今更どうしようもできないことを、この映画で言いたいところとは最終的に違う教訓を覚える自分に、苦笑しか出て来ない。

今できることは、結局、病気も含め、これからの人生を如何に豊かにすることか?だろうな・・そう思った映画でした。